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広島高等裁判所岡山支部 平成11年(行コ)2号 判決

控訴人

地方公務員

災害補償基金岡山県支部長

石井正弘

右訴訟代理人弁護士

塚本義政

甲元恒也

右訴訟復代理人弁護士

佐藤洋子

被控訴人

斉藤邦子

右訴訟代理人弁護士

清水善朗

山本勝敏

谷和子

主文

一  本件控訴を棄却する。

二  控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人の請求を棄却する。

3  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

二  被控訴人

主文と同旨

第二  事案の概要

次のとおり訂正付加するほか、原判決の「第一 事案の概要」を「第二 事案の概要」と改めた上これを引用する。

一  原判決の訂正

1  原判決三頁一一行目の「九月三一日」を「九月三〇日」に改める。

2  同一一頁につき、四行目の「挙げられている」を「挙げられており、高血圧、高脂血症、喫煙の三者の影響が中心的役割を占める」に改め、五行目の次に行を改めて

「 ところで、ストレスとは過度の肉体労働、精神的緊張の持続、興奮、不眠、親しい者との死別、離婚、失業、破産等の急性ないし慢性の心身の負荷(ストレッサー)による中枢神経系、自律神経系、内分泌の変調をいい、その総合効果が循環器系に影響を及ぼし、その結果が発作の引き金役を果たすことは十分考え得ることであり、週六〇時間以上の労働や月五〇時間以上の残業等の精神的ストレスが高血圧の発症、悪化に影響を及ぼしているとか、精神的ストレスが血栓や動脈硬化に関与しているとの研究報告があり、過労やストレスが心筋梗塞の促進因子となった可能性を示す症例も多数紹介されている。しかし、ストレスと心筋梗塞等の虚血性心疾患との関係は、集団又は集団の成員について、個人的、社会的、時間的変動が大きいためその測定が困難であることから、ストレスの影響が存在することはほとんどの研究者が容認しつつも、その寄与の程度について一般的結論は下しがたい現状にあり、ストレスの関与の有無とその程度についてはケースバイケースで医学的知見に照らして総合的に判断せざるを得ないとされている。」

を、六行目の「第四三号証、」の次に「第六三号証、」を、七行目の「第三〇号証」の前に「第二九号証、」を、同行の「第四四号証」の次に「、第四八号証、証人柳沼淑夫」を各加える。

3  同一四頁につき、八行目の「石灰化」の次に「(これは動脈硬化の終末像を示す)」を加え、一〇行目の「梗塞発生前」を「梗塞発生」に改める。

4  同一五頁につき、一行目の次に行を改めて

「 右所見に照らすと、斉藤は左冠状動脈前下行枝起始部の著しい狭窄部分に新たな血栓が発症して冠状動脈内腔を閉塞し、その灌流領域である左心室前壁中隔の心筋障害をきたし、心筋壊死に至ったものと考えられる。」を、九行目の「第三四号証」の次に「、第四八号証、証人柳沼淑夫」を各加え、一〇行目の「三」を「二」に改める。

5  同一九頁二行目の「この点で」を削る。

6  同二六頁につき、二行目の「斉藤が」を「斉藤は」に改め、三行目末尾に続けて「なお、前記の倉敷中央病院の診療録の昭和五三年五月九日付け内科医メモによれば、当時斉藤はアダムス・ストークス症候群を発症したものと考えられ、当時既に斉藤の冠状動脈の動脈硬化はかなり重篤な状態になっていたとみられる。」を加える。

7  同三〇頁九行目の「妨げないものでない」を「妨げるものではない」に改める。

8  同三一頁四行目の「労働災害補償保険法」を「労働者災害補償保険法」に改める。

二  当審における補充的主張

1  控訴人

(一) 斉藤は急性心筋梗塞により死亡するに至ったものであるが、その原因は冠状動脈粥状硬化症であった。高血圧症は動脈の粥状腫形成に働き、冠状動脈硬化を促進させ、特に、高脂血症の存在下では著しいとされているところ、斉藤が昭和五八年五月三〇日に高血圧症と診断され、昭和六一年九月二七日に高脂血症と診断されたころには同人の冠状動脈の粥状硬化症は重篤の状態にあり、いつ心筋梗塞が発症してもおかしくない状態にあった。

しかも、斉藤は、死亡する前の数ヶ月間は、従前ほど繁忙ではない勤務状態であった。

(二) ストレスが動脈硬化症の発症または増悪に及ぼす影響については解明されておらず、生体はストレスに対して防衛的に反応し、適応させる能力があるとの医学的知見もあり、また、心筋梗塞発症に対する危険因子としてのストレスの影響程度についても、危険因子一一項目中の下位に属する一項目に過ぎない。

斉藤の健康状態につき、その死亡の五年数ヶ月前から継続的な公務によるストレスを原因とする肉体的、精神的疲労が回復されることなく継続していたとの原判決の認定は、生体にはストレスに対する適応能力がある等の医学的知見に照らして誤りである。

(三) 結局、斉藤は重篤かつ多様な基礎疾患の自然経過により心筋梗塞を発症したものであり、斉藤の死亡と同人の公務との間に相当因果関係は認められない。

2  被控訴人

(一) ストレスが動脈硬化症を形成する機序は次のとおりであり、慢性過労が動脈硬化の促進因子として働くことは明らかになっている。

(1) ストレスを受けると、人間の身体は恒常性を維持するため交感神経―副腎髄質系及び下垂体―副腎皮質系を介して適応しようとする。交感神経の興奮及び血中カテコラミンの増加は心拍数を増やし、皮膚、内臓の血管を収縮させることによって血圧を上昇させる。また、血中への脂肪酸、グルコースの放出が促進され、肝臓でのVLDL(超低比重リポ蛋白)の合成、分泌が亢進する。

(2) ストレスが長期間持続すると、このような反応が蓄積し、高血圧症や高脂血症を惹起し、動脈硬化症の形成につながると考えられる。また、カテコラミンによって心拍数が急激に上昇し、血管内血流の変化が起こるが、こういった血行動態の変化が血管内皮障害につながると考えられる。

(3) 同時に、カテコラミンはトロンボキサンA2を介して血小板凝集能を亢進させ、心筋梗塞の発症にかかわる。

(二) 斉藤は、基礎疾患と過重な公務による慢性蓄積疲労とが競合して心筋梗塞に至ったものであり、過重な公務が自然経過を超えて基礎疾患を急激に増悪させたもの、あるいは、過重な公務がなければ基礎疾患が急激に増悪することはなかったという意味で、公務に内在する危険が現実化したものといえ、本件は公務起因性が明らかな事案である。

第三  当裁判所の判断

一  斉藤が従事した公務の内容、状況及びその当時における同人の心身の常況等は、次のとおり訂正するほか、原判決四四頁六行目から六四頁末行までに記載のとおりであるから、これを引用する。

1  原判決四五頁につき、四行目の「同秋山智哉及び同高尾武男の各証言」を「同秋山智哉、同高尾武男、同小童谷昭治及び同赤枝和寛の各証言」に改め、九行目の「倉敷市建設局土木部土木課」の次に、「、同管理部施設課」を加える。

2  同四七頁につき、六行目から七行目にかけての括弧内を「なお、証人柳沼淑夫は、斉藤の右サッカー練習中の症状について、同年五月一二日に同病院で行われた脳波及び脳CT検査で脳波異常が認められず、一過性脳虚血性の際にしばしば認められる脳CT上のラクナ小梗塞巣が認められないこと等から、心源性一過性失神発作であるアダムス・ストークス症候群を発症したものと判断している」に、七行目の「同年」を「昭和五八年」に各改める。

3  同五一頁五行目の次に行を改めて「右期間における斉藤の残業時間は、繁忙期は月六〇ないし七〇時間であり、そうでない時期でも残務整理のために毎日一、二時間は残業するのが恒常化していた。」を加える。

4  同五三頁につき、六行目の「九月ころ以降」を「九月ころ以降が」に、七行目の「一、二月ころ」を「一、二月ころが」に各改める。

5  同五六頁につき、一行目の「昭和六二年」を「昭和六三年」に、一〇行目の括弧内を「残業日数は出勤日のうちの約七割に及び、残業時間は一日あたり平均3.2時間であった」に各改める。

6  同五七頁につき、二行目の「一七日」を「一五日」に、三行目の「休暇」を「年次有給休暇」に、六行目から七行目にかけての「同月二六日」から九行目の「同月二日」までを「同月二六日は午前中は特別休暇をとり、午後は風邪で年次休暇をとり、翌同月二七日も午前中風邪で年次休暇をとり、翌同月二八日は午前中特別休暇をとり、同月三〇日は事務連絡で県庁へ出張し、同年一一月二日」に、末行の「午前九時からの」を「午前九時から」に各改める。

7  同六〇頁一一行目の「趣味のサッカーに参加したほか」から一二行目の「小豆島旅行に出掛け」までを「七月まではしばしば趣味のサッカーの試合への参加を予定していた(ただし、予定したすべてに参加したか否かは明らかでない)ほか、ゴルフをし(六月)、ハチ北高原スキー場でスキーをし(二月)、シンガポール旅行(三月)、小豆島旅行(五月)に出掛け」に改める。

8  同六四頁三行目の「正常化か否かを」を「正常値と正常値を超える数値とを」に改める。

二  本件における公務起因性について

1  地方公務員災害補償法にいう「職員が公務上死亡した場合」とは、職員が公務に基づく傷病に起因して死亡した場合をいい、公務と死亡との間に相当因果関係があることが必要である。

そして、地方公務員災害補償制度が、公務に内在又は通常随伴する危険が現実化した場合に、これによって職員に生じた損失を補償するものであることに鑑みると、職員が基礎疾患を有しており、これが一因となって疾病が発生して死亡した場合には、公務による過重な精神的、肉体的負荷によって基礎疾患が自然経過を超えて増悪し、死亡の結果を招いたと認められるとき、換言すれば、公務が基礎疾患を自然経過を超えて増悪させ、死亡の結果を招くに足りる程度の過重負荷となっていたと認められるときに、公務に内在ないし通常随伴する危険が現実化したものとして相当因果関係を認めるのが相当である。

2  これを本件についてみるに、引用にかかる原判決認定事実によれば、斉藤が昭和五九年四月以降死亡までの五年八か月間に岡山地方振興局児島湖流域浄水事務所及び倉敷市下水道局下水建設部建設一課で従事した公務の内容は、技術職の職員としての専門知識経験を要求される難易度の高い職務であり、さらに、倉敷市下水道局下水建設部建設一課では二年八か月間という相当長期間にわたって係長として組織管理事務全般及び対外的折衝調査事務が付加されたことにより公務の困難性がさらに増加した。このような状況のもとで斉藤は長期間にわたり日常的な超過勤務状態とりわけ深夜休日に及ぶ現地での説明会、補償交渉、苦情処理等の対外的折衝調査事務等の精神的にも緊張を伴う仕事に従事していたのであり、死亡前三か月間は従前より残業時間が減少していたが、それでも一か月平均の残業時間は53.7時間に及んでいたのであり、このような過重な公務の長期間の継続が斉藤にかなりの精神的、身体的負荷を与え、慢性的な疲労やストレスを蓄積させていたものと認められる。

他方、斉藤は、昭和五八年五月以降継続的に医療機関を受診し、心筋梗塞の基礎疾患とされている高血圧症、高脂血症、高尿酸血症等の病名により投薬治療を受けていたほか、心筋梗塞の促進因子である喫煙習慣を有していたものであるが、倉敷市下水道局下水建設部建設一課に勤務するようになってからは、受診時における血圧値が最高は一五〇mmHg以上、最低が一〇〇mmHgであることが以前にも増して格段に多くなり、特に死亡前三か月は、最高血圧値はすべて一六〇mmHgを超え、最低血圧値も一〇月二一日の九四mmHgを除き、一〇〇mmHgを超える水準で推移し、高脂血症、高尿酸血症も改善されていなかった。

右のとおり、斉藤は心筋梗塞の基礎疾患とされている高血圧症、高脂血症、高尿酸血症等の基礎疾患を有していたほか、心筋梗塞の促進因子である喫煙習慣を有していたが、長期間の過重な公務が精神的、身体的にかなりの負荷となり、慢性的な疲労、ストレスを蓄積させていたのであり、前記認定の斉藤の基礎疾患の内容、症状の推移、斉藤が従事していた公務の内容、遂行状況に加えて、心筋梗塞が心臓の冠状動脈硬化によって発症するものとされていること、疲労やストレスが動脈硬化や動脈硬化の促進因子である高血圧の原因の一つとなり得るものとされていることを考慮すると、斉藤の心筋梗塞は、死亡前五年八か月間の公務による過重な精神的、身体的負荷が基礎疾患の自然経過を超えて心筋梗塞の前駆症状である冠状動脈硬化症を増悪させた結果発症したものと認めるのが相当であって、公務と死亡との間に相当因果関係を肯定することができる。

3  控訴人は、斉藤は重篤かつ多様な基礎疾患の自然経過によって心筋梗塞を発症したものであり、斉藤の死亡と同人の公務との間に相当因果関係はないと主張する。

そして、前記のとおり、斉藤は高血圧症、高脂血症等の心筋梗塞の基礎疾患を有しており、斉藤の解剖結果によれば、全身の動脈硬化症が進行しており、すべての冠状動脈に動脈粥状硬化症に基づく内腔狭窄があり、特に、左冠状動脈前下行枝起部には多数の石灰化が認められ、死亡当時、斉藤の冠状動脈の硬化は重篤な状態に至っていた。

しかし、問題は、冠状動脈の硬化がこのような重篤な状態に陥ったことが斉藤の基礎疾患の自然経過によるものであるのか、それとも基礎疾患の自然経過を超えて増悪し、公務に内在ないし通常随伴する危険が現実化したものと評価できるかということであり、その判断は、斉藤の基礎疾患と斉藤の従事した公務の内容を総合的に考慮して行うほかないのであり、斉藤が従事していた公務の内容、性質等に照らすと、右基礎疾患の存在も前記判断を左右しない。

なお、証人柳沼淑夫は、その証言及び意見書(乙四八)において、医学的には斉藤の心筋梗塞が公務によって発症したものとは認められない旨供述するが、右供述は、動脈硬化に対するストレスの影響を否定ないし極めて限定された範囲でのみ認める見解を前提とするものであり、採用できない。

4  以上のとおりであり、斉藤の死亡は公務に起因するものというべきであるから、これを公務外の災害とした本件処分は違法である。

三  よって、原判決は相当であり、本件控訴は理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官・前川鉄郎、裁判官・辻川昭、裁判官・森一岳)

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